2014年10月8日水曜日

本物の人生を送りたいあなたのための思考法

From: 菊谷隆太 
日付: 2014年10月6日 18:11
件名: メール講座(No.4)【本物の人生を送りたいあなたのための思考法】
To: simizu.h


こんばんは。菊谷隆太です。

【一からわかる仏教講座】

いつも読んでいただき、どうもありがとうございます。

今日は【追伸】でプレゼント企画がありますので、

お見逃しなく。

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【やりたいことやれば死んでも満足】

という人生観を持っている人は多いです。



ところでその人生観における

「やりたいこと」って何でしょうか?



のどが渇いてしょうがない時は、

恋人と話すよりも、

テレビ見るよりも、

何よりもやりたいことは

「飲み物を飲むこと」でしょう。



そのやりたいこと(飲み物を飲む)を

存分にできるようにした後で、

「これで死んでも満足か?」

と問うたら?

・・・答えは明らかです。



私が子供のころのことですが、

ずっと欲しかったおもちゃを

誕生日に買ってもらえることになり、

指折り数えて待っていたのですが、

ある事情で買ってもらえなくなったときに、

なんだか地球を丸ごと失ったような苦しみを感じたものです。



その当時、一番やりたいことは断然

「そのおもちゃを我が物にすること」でしたが、

今になって思えば、

あの必死さはなんだったのだろう、と

今ではまったく欲しいとは思いません。



『10歳にして菓子に動かされ

 20歳にしては恋人に、

 30歳にして快楽に、

 40歳にしては野心に、

 50歳にしては貪欲に動かされる。』

ゲーテの言葉です。



やりたいことは年齢や環境で

くるくる変わっていきます。

そのときはどうしてもこれがほしい、と

必死になったのです。

受験合格、恋愛、就職、出世、結婚、マイホームetc

あの時やっとの思いでつかんだ、あの喜びは

今はどこへ行ってしまったんだろう

つかんだ喜びはいつしか風化し、色あせてしまう

そんなことをいくつか繰り返していくうちに

歳を重ね、老いていく現実だけがのしかかる。。。。



【やりたいことやれば死んでも満足】

この言葉は単純に捉えられません。

あなたが真に人生かけてやりたいこと、

「生きててよかった」と心底思えること

心から充たされること、とは何でしょう。



さて昨日は、それを発見することができる、

一つの問いがあるんですよ、とお話ししました。

その問いとは・・・

『もしあなたが「あと1か月の命」と宣告されたら、

 あなたはこの一か月何をしますか?』

というものです。



いきなりそんなこと言われてもそんな状況自体が想像できない、と

思われるでしょうが、

やがてそういうときがどんな人にでも訪れるのですから、

この場だけでも自らに問いかけてみてください。



あと一か月後に死ななければならない。

さあ、あと一ヶ月、何に使いますか??



その時、胸の奥から湧き上がってくるのが

「本当にやりたいことをしたい」

「本当に会いたい人と会いたい」

「本当に話したいことを話したい」

「本当に行きたい所へ行きたい」

「本当に見たいものを見たい」

という切なる思いなのです。



余命1か月となったら、

今よりずっと、真剣に生きるでしょう。



逆に言えば、今までの生活は、

ニセものだったと

感じられるのではないでしょうか。

会いたくもない人と顔を合わせ、

つまらぬ会話にうなずいて、

みんなと歩調を合わせて行きたくない所に行き、

取り残されたくないから見たくもないものを見る。



本当の意味で「生きてはいなかった・・・」

だから「さっさと生きてさっさと死にたい」

とさえ思っていた。



あと一ヶ月の命と期限を突きつけられたら、

その心は一変します。

「人間に生まれたのは、

これを成し遂げるためであった」

といえるものが、何かオレにあっただろうか?

自問自答せずにおれなくなります。



せめて残りの1か月だけでも、

本物の人生を送りたい、と思うでしょう。



フランスの哲学者、パスカルはこのことを

「あなたはあと1週間の命となったら何をしますか。

 その答えこそ、生涯かけてなすべきことである。」

と述べました。



自己の命は有限だったと気付く時、

真面目に死に向き合った時、

『必ず死ぬのに なぜ生きる』

人生最大の問題と対峙させられるのです。



そして、その苦悩に煩悶した人に、

真の人生が切り開かれることを仏教では

「無常を感ずるは、菩提心(ぼだいしん)の、一(はじめ)なり」

(死を見つめることはいたずらに暗く沈むことではなく、

 生の瞬間を日輪よりも明るくする第一歩といえよう。)

と説かれています。



そして数ある仏教の先達の中でも

この生と死の問題を誰よりも純粋に凝視し、

真摯に煩悶し、ついに「本当の幸せ」があることを見出された方が

800年前、鎌倉時代に現れた『親鸞』という人でした。



私が自己紹介で

「仏教講師です。特に専門に学んでいるのは親鸞という人です」

と言うと

「なぜ数ある仏教の中で、「親鸞」なんですか」

とよく聞かれます。



実は私自身、大学まで仏教哲学に関心はあったものの、

親鸞聖人のことは歴史で学んだだけで、

むしろ日本の旧態然とした各宗派は、

葬式、法事を生業とする僧侶のイメージで、

仏教に説かれている思想哲学はそういうところにはない

となんとなく思ってしまっていました。



その私が今、親鸞聖人の教えを伝えることに

生涯をかける浄土真宗の講師になったのですから、

世の中はわからないものですね。

なぜ親鸞聖人を学びたいと思うようになったのか、

明日はそこをお話し、

本当の幸せの核心に迫ってまいります。



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(編集後記)

死を自覚することが本当の幸せになるのに重要な鍵である

と説く仏教の教えを今日はお話ししたのですが、

実はこの内容については

私自身が聞き始めの頃、

今一つよくわからなかったところでした。



私にとって「死」は苦しい人生の終わり、

甘美なもののように感じていたところがあったからです。



先日ある30代の女性が

「40過ぎてまで生きたくない」

と言われていましたが、

死にたい、より、生きて苦しみたくない、

という気持ちからだと思います。

今後ますます肩にくい込むであろうこの人生の重荷を、

いっそのこと下ろしてしまいたい、

ということなのでしょう。

仏教に出会う前の私もそんな気持ちがどこかにありました。



ところが一方では子供の頃から、

死んだら「私」がなくなる、というのに、

何とも言えない支えのない恐怖も感じました。



また小さい頃、幽霊が怖くて

真っ暗なところでは寝れなかった時期もありました。

なんで幽霊がそんなに怖いのだろう、と

幼い頭で真剣に考え、私が出した結論は、

幽霊にあっちの世界に連れていかれるのが怖い、ということでした。



死んだらどうなるのか、

家族と離れてどこへ行ってしまうのか、

何があるのか、妙に不安で死が怖かったのです。



中学、高校と進むにつれ、

進路や人間関係など生きる悩みも増え、

忙しさの中でそんな不安はすっかり忘れてしまいましたが、

その不安はなくなっているのではなく、

自分の中に内在していたのです。

それは仏教を学んで私が気づいたことでした。


【追伸】

今日は一件、プレゼントがあります。

15分くらいの動画です。

昨日、今日とメール講座でお話ししたことを

まとめたような内容です。

話したかったことをよりわかっていただけることになるなら、

と撮りました。

ここで私が話している「山のたとえ」は

私が仏教を初めて聞いたときに衝撃を受け、

心をわしづかみされた話しです。

18歳の時でした。

あれ以来、自分が感動したこの話を

どれだけいろいろな人に話してきたでしょう。

そして今後も生涯話し続けます。

こちらです。

http://kikutaniryuta.com/gift/prezentkoenabato1009.html



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