件名: メール講座(No.17)【幸せになれない人なんて一人もいない】
こんばんは。菊谷隆太です。
【一からわかる仏教講座】
いつも読んでいただき、どうもありがとうございます。
日々、感想をいただき、ありがとうございました。
今日もその一つをご紹介します。
> 私も仕事のことで日々、悩みまくり
> 解決の光が見えない日々….本当に救いなんて
> あるのかよ??ってところが今の心境。
> でも、その中でも菊谷先生のメルマガで何かの
> きっかけをつかめるかもー、と思いながら拝読
> させていただいております!
> もう一度、明日は第1回から、読み直す予定で
> います!!
> 菊谷先生、これからもがんばってくださいませ!
> 期待しております!!
『難度海』に本当に救いなんてあるのかよ、 と思われるでしょうが、
どうぞ今のお気持ちで続けて確かめられてください。
必ず聞き続けてよかったと思われる時があります。
今後も精いっぱい大きな船あることをお話ししてまいります。
通信講座も作成は大変ですが、
講座を期待する声をいただき、
疲れも吹っ飛んで、
より頑張ろうという気持ちにさせられてます。
ありがとうございます。
では今日の本題です。
=================
「執着があなたを苦しませているのです。
その“とらわれ”を解き放ちなさい」
「自分を好きになることから始めなさい」
「相手は変えられないけど、自分は変えられる。
自分が変われば相手も変わるよ」
上記のようなことを本や講演で勧められ、
数々のワークも実践したり、
コーチングを受けたりして、
その時は感情を揺さぶられて涙も出てきて、
心が軽くなるのですが、
しばらくするとまた心が重くなってくる、
そこでまた30分1万円とかのセクションを受けて
また軽くなるのですが、いつしかやっぱり元に戻る。
そうこうしているうちに30代が40代になり、50代になる。
自分が講師になったら人生変わるよ、
と勧められて
またお金払って試みるものの
自分の本音は心が寂しくて先を考えると不安なのに
人には、感謝と喜びで満たされるから、と勧めていることに
これでいいんだろうか、と
真面目な人なら、思えてもくる。
なぜそうなってしまうのでしょうか。
理由を一言で言うと、
【今まで聞いてこられたことは一時的な痛み止めの注射】
だったからです。
根本治療になっていないのです。
私も交通事故の後、腰痛で辛かった時に、
整骨院に行くと楽になるのですが、
また痛くなってくる、の繰り返しでした。
ところがある整骨院で、
背骨のここ、ずれてますね、と
原因を指摘され、
そこを矯正してもらったところ、
すっかり腰痛が治り、
あれから今もずっと腰痛に悩まされることは
なくなってしまいました。
根本的なところを直してもらわなければ、
一時しのぎになってしまうのです。
「執着があなたを苦しませているのです」
といわれますが、
執着で苦しんでいるように思うのは、表面です。
だいたい執着はなくせるものではありません。
とらわれ心、執着をなくして生きろ、とは
魚に水のないところに住め、
と言っているようなものでしょう。
「自分を好きになりなさい」と言われても
好きになれずに、自分を大切にも思えずにいる人が
どれだけいることでしょう。
「自分を変える」といいますが、
自分を変えられなくて苦しんでいる人がどれだけいることか。
パチンコ一つ、やめられないでいる。
ましてや行動だけでなく、
自分の心まで変えるというのですから、
至難なことです。
真剣に実行しようとすると、その難しさが知らされます。
もし物事にとらわれることなく、
正しく見ることができ、
自分を愛し、周りも愛し、
怒りや嫉妬に煩わされることなく
感謝一杯生きることができる人があれば
『難度海におぼれている人』とは言いません。
親鸞聖人は「難度海」におぼれる私たちのことを
「無眼人(むげんにん)」「無耳人(むににん)」 と言われました。
「無眼人」とは眼無き人
真実を見る目がない人、ということです。
「無耳人」とは耳無き人
真実を聞く耳のない人、ということです。
眼がないから、陸地が見えないのです。
だからどの方角に泳いでいいかも分かるはずがない。
見えるのは近くにある丸太や板切れです。
人生の波が苦しいので、何かにすがらなかったら生きていけない。
「それ、いつかひっくり返るよ」
「今までもひっくり返ってきたでしょ」
とさとされても
今が苦しいので、いつか裏切ると予感しても
すがらずにおれないのです。
しがみついてしまうのです。
これが、まことの幸せを見る目がない姿です。
陸地はこっちだぞー、と叫ぶ人がいても聞こえないのです。
耳がないから。
どうやったら財産や恋人といった丸太や板切れが手に入るか、
の話は関心が高く、集中して聞きますが、
死が来ても捨てられることがない、摂取不捨の幸福があるぞ
と仏教の話を聞いても、聞く耳を持たない、
どっちでもいいくらいにしか受け止められない。
まさに耳無き人です。
大地も見えない、
たとえ大地がある方角を知ったところでそこまで泳ぐ力もない、
していることは、ただ少しでも楽になれば、と
丸太や板切れにしがみつくだけです。
こんな私たちだから、陸地から
「おーい、ここまで来いよー」
と言ってても
助けられないのです。
だからこそ
『衆生苦悩我苦悩(しゅじょうくのうがくのう)
衆生安楽我安楽(しゅじょうあんらくがあんらく)』
人々の苦悩が私の苦悩であり、
人々の幸せが私の幸せである
という仏の慈悲が、
大きな船となって顕われ
「何とか助けてやりたい」と
おぼれているところまで近づいて下さるのです。
そういう教えが『仏教』です。
だから信楽(本当の幸せ)になれない人なんて
一人もいないのです。
==============
(編集後記)
世界中からの寄進や志願兵がイスラム国を支えていると聞きます。
アメリカでは日曜日の午前中はテレビの各局で
キリスト教の牧師がスピーチしてます。
そして世界中の大半を占めるキリスト教とイスラム教が
バルカン諸国で、中東で、チェチェンで
紛争を繰り返しているのが今の世界情勢です。
「“敵対によって敵対は終わらず”とは、
ブッダの遺した感動的な言葉です」
とニーチェも言っていますが、
私も仏教思想がもっと世界の人の心に影響を与えるようになれば
世界の紛争も変わったものになるのではないか、と思っています。
特に日本は先進国で唯一の仏教国なので、
その発するメッセージは
他国とは違う良い影響を世界に与えられるのでないか
と思うのです。
日本には小さな農村にも
先祖代々大事にしてきた寺があります。
地域の人が仏教に親しめる場がそこにあれば、
と切望するのですが、
憂うべき実態が知らされるばかりです。
まだ私が25歳の時ですが、
寺の坊主が、
「あいつは俺のところに来ない。何の気になっとる!」
と腹を立てている場面を目撃してしたことがあります。
どうもよく聞いてみると、
その寺の門徒ばかりのいる村で、
ある家に身内の不幸があり、
その家の主人が自分のところへ葬式の依頼をしてこなかったという ことに
腹を立てていたのです。
これを聞いたときは、
「そういうお前こそ何の気になっとる!」
と言い返したくなりました。
門徒を自分の財産のように思って、
葬式や法事を収入源のように思っていなければ
そういうセリフは出てこないからです。
親鸞聖人は流刑の地、越後の風雪の中、
寒中もいとわず一軒一軒、
戸別に訪ねて回られたでないか。
当時の聖人の立場は流罪人。
余程のことがなければ、 そんな相手の話に耳を貸す人はないでしょう。
取りつく島もない応対に、なお忍耐強く聖人は、
一言なりと法を伝えんと、
また次の家、隣の村へと歩みを運ばれます。
「この里に
親をなくした 子はなきか
み法の風に なびく人なし」
"親を亡くして世の無常を知らされ、
泣いている子はこの里にないものか。
稲穂が秋風になびくように、
真の法を求むる人がない"
とのお歌にもその時のご苦労がしのばれます。
やがて心を開く人が一人二人と現れれば、
囲炉裏を前に無学文盲の村人たちに交じって、
根気よく、丁寧にお話し続けられました。
そのように胸から胸へと伝えてくだされたればこそ、
今日に続く脈々たる法流が形づくられたのです。
全国の村に、村人から支えられる寺ができ、
そこで法を説いて村人を勧化する責任ある僧侶があり、 今日があります。
来ないとは何事だ、と怒る資格はどこにもない。
どこの店が客が来ないことを客のせいにして怒っている?
みな商品やサービスを向上させて生き残るのに一生懸命ではないか 、
法を説かないから来られないだけでないか。
法を説いているとしたら、
その話が魅力ないから来ないのでないか
そこを猛省しなければならない場面でしょう。
寺離れが進み、仏教は衰退の一途をたどっています。
仏祖の御徳の上にあぐらをかいて、
生活の糧にしている姿を今にして猛省しなければ
寺も僧侶も跡形もなくなってしまうのではないでしょうか。
私はほとんどの寺には期待していませんが、
それでも中に私の周りでも何人かしっかり学びたい
というお寺の住職さんもおられます。
本願寺派だ、大谷派だ、東だ、西だ、という派閥を越えて
純粋に仏教を学びたい、親鸞聖人のことを学びたい、
そして伝えたいという方たちです。
そういう方と力を合わせて私は進みたいと思っています。
今日はそんな方のおひとりを紹介します。
神奈川県の真宗のお寺の若住職です。
(本当に若い20代。イケメン僧りょ。
残念ながら奥さんおられます)
インタビューの最後に、
当メール講座を読んでおられる方にぜひ、
とのへのメッセージもいただきましたので、聞いてください。
http://kikutaniryuta.com/gift/ prezent1016-1.html
この方のように、
学びたい、伝えたい、という方おられれば、
ぜひ一緒に学んでまいりましょう。
メール講座全ステップ終了まで、あと4日です。
それではまたメールします。
お体くれぐれも大切になさって下さいませ。
============
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└──┘
執筆発行:菊谷隆太
kikutani@waseda.ne.jp
こんばんは。菊谷隆太です。
【一からわかる仏教講座】
いつも読んでいただき、どうもありがとうございます。
日々、感想をいただき、ありがとうございました。
今日もその一つをご紹介します。
> 私も仕事のことで日々、悩みまくり
> 解決の光が見えない日々….本当に救いなんて
> あるのかよ??ってところが今の心境。
> でも、その中でも菊谷先生のメルマガで何かの
> きっかけをつかめるかもー、と思いながら拝読
> させていただいております!
> もう一度、明日は第1回から、読み直す予定で
> います!!
> 菊谷先生、これからもがんばってくださいませ!
> 期待しております!!
『難度海』に本当に救いなんてあるのかよ、
どうぞ今のお気持ちで続けて確かめられてください。
必ず聞き続けてよかったと思われる時があります。
今後も精いっぱい大きな船あることをお話ししてまいります。
通信講座も作成は大変ですが、
講座を期待する声をいただき、
疲れも吹っ飛んで、
より頑張ろうという気持ちにさせられてます。
ありがとうございます。
では今日の本題です。
=================
「執着があなたを苦しませているのです。
その“とらわれ”を解き放ちなさい」
「自分を好きになることから始めなさい」
「相手は変えられないけど、自分は変えられる。
自分が変われば相手も変わるよ」
上記のようなことを本や講演で勧められ、
数々のワークも実践したり、
コーチングを受けたりして、
その時は感情を揺さぶられて涙も出てきて、
心が軽くなるのですが、
しばらくするとまた心が重くなってくる、
そこでまた30分1万円とかのセクションを受けて
また軽くなるのですが、いつしかやっぱり元に戻る。
そうこうしているうちに30代が40代になり、50代になる。
自分が講師になったら人生変わるよ、
と勧められて
またお金払って試みるものの
自分の本音は心が寂しくて先を考えると不安なのに
人には、感謝と喜びで満たされるから、と勧めていることに
これでいいんだろうか、と
真面目な人なら、思えてもくる。
なぜそうなってしまうのでしょうか。
理由を一言で言うと、
【今まで聞いてこられたことは一時的な痛み止めの注射】
だったからです。
根本治療になっていないのです。
私も交通事故の後、腰痛で辛かった時に、
整骨院に行くと楽になるのですが、
また痛くなってくる、の繰り返しでした。
ところがある整骨院で、
背骨のここ、ずれてますね、と
原因を指摘され、
そこを矯正してもらったところ、
すっかり腰痛が治り、
あれから今もずっと腰痛に悩まされることは
なくなってしまいました。
根本的なところを直してもらわなければ、
一時しのぎになってしまうのです。
「執着があなたを苦しませているのです」
といわれますが、
執着で苦しんでいるように思うのは、表面です。
だいたい執着はなくせるものではありません。
とらわれ心、執着をなくして生きろ、とは
魚に水のないところに住め、
と言っているようなものでしょう。
「自分を好きになりなさい」と言われても
好きになれずに、自分を大切にも思えずにいる人が
どれだけいることでしょう。
「自分を変える」といいますが、
自分を変えられなくて苦しんでいる人がどれだけいることか。
パチンコ一つ、やめられないでいる。
ましてや行動だけでなく、
自分の心まで変えるというのですから、
至難なことです。
真剣に実行しようとすると、その難しさが知らされます。
もし物事にとらわれることなく、
正しく見ることができ、
自分を愛し、周りも愛し、
怒りや嫉妬に煩わされることなく
感謝一杯生きることができる人があれば
『難度海におぼれている人』とは言いません。
親鸞聖人は「難度海」におぼれる私たちのことを
「無眼人(むげんにん)」「無耳人(むににん)」
「無眼人」とは眼無き人
真実を見る目がない人、ということです。
「無耳人」とは耳無き人
真実を聞く耳のない人、ということです。
眼がないから、陸地が見えないのです。
だからどの方角に泳いでいいかも分かるはずがない。
見えるのは近くにある丸太や板切れです。
人生の波が苦しいので、何かにすがらなかったら生きていけない。
「それ、いつかひっくり返るよ」
「今までもひっくり返ってきたでしょ」
とさとされても
今が苦しいので、いつか裏切ると予感しても
すがらずにおれないのです。
しがみついてしまうのです。
これが、まことの幸せを見る目がない姿です。
陸地はこっちだぞー、と叫ぶ人がいても聞こえないのです。
耳がないから。
どうやったら財産や恋人といった丸太や板切れが手に入るか、
の話は関心が高く、集中して聞きますが、
死が来ても捨てられることがない、摂取不捨の幸福があるぞ
と仏教の話を聞いても、聞く耳を持たない、
どっちでもいいくらいにしか受け止められない。
まさに耳無き人です。
大地も見えない、
たとえ大地がある方角を知ったところでそこまで泳ぐ力もない、
していることは、ただ少しでも楽になれば、と
丸太や板切れにしがみつくだけです。
こんな私たちだから、陸地から
「おーい、ここまで来いよー」
と言ってても
助けられないのです。
だからこそ
『衆生苦悩我苦悩(しゅじょうくのうがくのう)
衆生安楽我安楽(しゅじょうあんらくがあんらく)』
人々の苦悩が私の苦悩であり、
人々の幸せが私の幸せである
という仏の慈悲が、
大きな船となって顕われ
「何とか助けてやりたい」と
おぼれているところまで近づいて下さるのです。
そういう教えが『仏教』です。
だから信楽(本当の幸せ)になれない人なんて
一人もいないのです。
==============
(編集後記)
世界中からの寄進や志願兵がイスラム国を支えていると聞きます。
アメリカでは日曜日の午前中はテレビの各局で
キリスト教の牧師がスピーチしてます。
そして世界中の大半を占めるキリスト教とイスラム教が
バルカン諸国で、中東で、チェチェンで
紛争を繰り返しているのが今の世界情勢です。
「“敵対によって敵対は終わらず”とは、
ブッダの遺した感動的な言葉です」
とニーチェも言っていますが、
私も仏教思想がもっと世界の人の心に影響を与えるようになれば
世界の紛争も変わったものになるのではないか、と思っています。
特に日本は先進国で唯一の仏教国なので、
その発するメッセージは
他国とは違う良い影響を世界に与えられるのでないか
と思うのです。
日本には小さな農村にも
先祖代々大事にしてきた寺があります。
地域の人が仏教に親しめる場がそこにあれば、
と切望するのですが、
憂うべき実態が知らされるばかりです。
まだ私が25歳の時ですが、
寺の坊主が、
「あいつは俺のところに来ない。何の気になっとる!」
と腹を立てている場面を目撃してしたことがあります。
どうもよく聞いてみると、
その寺の門徒ばかりのいる村で、
ある家に身内の不幸があり、
その家の主人が自分のところへ葬式の依頼をしてこなかったという
腹を立てていたのです。
これを聞いたときは、
「そういうお前こそ何の気になっとる!」
と言い返したくなりました。
門徒を自分の財産のように思って、
葬式や法事を収入源のように思っていなければ
そういうセリフは出てこないからです。
親鸞聖人は流刑の地、越後の風雪の中、
寒中もいとわず一軒一軒、
戸別に訪ねて回られたでないか。
当時の聖人の立場は流罪人。
余程のことがなければ、
取りつく島もない応対に、なお忍耐強く聖人は、
一言なりと法を伝えんと、
また次の家、隣の村へと歩みを運ばれます。
「この里に
親をなくした 子はなきか
み法の風に なびく人なし」
"親を亡くして世の無常を知らされ、
泣いている子はこの里にないものか。
稲穂が秋風になびくように、
真の法を求むる人がない"
とのお歌にもその時のご苦労がしのばれます。
やがて心を開く人が一人二人と現れれば、
囲炉裏を前に無学文盲の村人たちに交じって、
根気よく、丁寧にお話し続けられました。
そのように胸から胸へと伝えてくだされたればこそ、
今日に続く脈々たる法流が形づくられたのです。
全国の村に、村人から支えられる寺ができ、
そこで法を説いて村人を勧化する責任ある僧侶があり、
来ないとは何事だ、と怒る資格はどこにもない。
どこの店が客が来ないことを客のせいにして怒っている?
みな商品やサービスを向上させて生き残るのに一生懸命ではないか
法を説かないから来られないだけでないか。
法を説いているとしたら、
その話が魅力ないから来ないのでないか
そこを猛省しなければならない場面でしょう。
寺離れが進み、仏教は衰退の一途をたどっています。
仏祖の御徳の上にあぐらをかいて、
生活の糧にしている姿を今にして猛省しなければ
寺も僧侶も跡形もなくなってしまうのではないでしょうか。
私はほとんどの寺には期待していませんが、
それでも中に私の周りでも何人かしっかり学びたい
というお寺の住職さんもおられます。
本願寺派だ、大谷派だ、東だ、西だ、という派閥を越えて
純粋に仏教を学びたい、親鸞聖人のことを学びたい、
そして伝えたいという方たちです。
そういう方と力を合わせて私は進みたいと思っています。
今日はそんな方のおひとりを紹介します。
神奈川県の真宗のお寺の若住職です。
(本当に若い20代。イケメン僧りょ。
残念ながら奥さんおられます)
インタビューの最後に、
当メール講座を読んでおられる方にぜひ、
とのへのメッセージもいただきましたので、聞いてください。
http://kikutaniryuta.com/gift/
この方のように、
学びたい、伝えたい、という方おられれば、
ぜひ一緒に学んでまいりましょう。
メール講座全ステップ終了まで、あと4日です。
それではまたメールします。
お体くれぐれも大切になさって下さいませ。
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執筆発行:菊谷隆太
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